人生はすでに筋書きが決まっているのか

「人生は、すでに筋書きが決まっているのか」ということで、友人と議論になった。その友人は仏教徒で、運命というものを信じているため、この議論になったのだ。

確かに、人生のかなり大きな部分は、いつ、どこで、どんな家庭に、どんな性別で生まれてくるかに依存している。これらは、自分では決して決められないことである。同様に、幼少時の環境、教育なども本人にはほとんど選択の余地がないが、これは自分の人生を大きく左右する。このような、自分で選んでないことによって人生が始まっているのは厳然たる事実である。

それでも、自分の人生、すべて筋書きが決まっているというのは尚早である。今現在自分が選ぶ行動によって、自分の人生が大いに変わりうる。例えば犯罪を犯 すことにより刑務所行きになることもありうる訳だし、転職、移住などで異なる環境へ自分を移すこともできる。

人は成長するにつれ、このような人生の選択を自分でしなければならなくなる。今まで親や学校に握られていた自分の人生のハンドルが、自分に手渡されるのである。これが「成人」ということのの意味だと思う。

日本において成人は20歳である。寿命を80歳とするならば、人生の1/4はすでに描かれているが、3/4は自分で描いていく、ということになる。そして子供を持つならば、このうち1/4以上は、自分の子供の人生を描いていくのに費やすのである。

人生というのは、駅伝やリレーに似ている。リレーにおいて走者が走り出す時は、必ず前の走者と一緒に走らなければならない。そして、自分がバトンをもらった時にすでに、試合の状況はある程度決まっている。トップを独走しているかもしれないし、ビリかもしれない。しかし、自分の行動次第その状況を変えることは可能である。

そして、人生のリレーにおいては、方向を変える、ということが可能である。今までの走者が走ってきたトラックをはずれ、違う道を走るということがあり得る。

ただし、前の走者-両親や年上の人、そして社会-は違う道を走ることに反対するかもしれない。彼らが一生懸命走ってきたトラックをはずれるのだから、ある意味当然である。だが最終的に走る方向を決めるのはやはりバトンを持っている今の走者なのである。そしていずれ、そのバトンは次の走者に渡されていく。

つまり、こう言えるだろう-人生の筋書きは、ある程度下書きが書かれている。だがこれはあくまで下書きであり、確定ではない。人は自らの意思で人生の選択をする。その選択は下書きと似てるかもしれないし、まったく別のものかもしれない。いずれにせよ人はその選んだ道を生きて行き、次の世代の人生の下書きを書いていくのである。

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人生はすでに筋書きが決まっているのか への1件のフィードバック

  1. より:

    哲学ネタとは珍しい。
    俺が乗るのもめずらしい。

    大人になる、ということは責任を授かるというバトンタッチ的で、勝手に周りが与えてくれるものではないと思う。責任を過不足なく全う出来る力を身につけることの方が、オトナになるということの意味に相応しいのではないだろうか、一般的には。対処する力の中には、人から何か言われたり、ひどい目にあったりしても、ささいなことであれば、全て自分で気持ちに整理をつけることができる力も含まれる。そう考えると、MIXIの大抵の人は子供だ、と言われてみればちょっと納得できてしまわないかな。

    仕事をしていて、社会的日常生活をしていても中身が子供な人もいれば、中身は大人だが仕事をしていないひともいる。ここを混同すると、大変うすっぺらな人間にしかなれないと自分は考える。自活できて、中身も大人であることが大切だ。これは高校のときから全然変わっていない認識だったりする。

    自分の考えとしては、人生の筋書きが決まっているかどうか、という問はあまり意味のあるモノとは思えない。あるいは、それは問いかたが間違っていると思う。これはまったく、個々人の信念の問題であろうから。

    自分はなんども、同じ人生をぐるぐる廻っているのだと考えることにしている。生まれ変わっていけるのは、自分自身だけだろう、と思っている。

    書き込まれていない未来はないし、過去にも一度同じ人生を生きたのだから、明日はあって、今日の限られた情報では迷ってしまうこともあるだろうけれど、やっぱりどうあがいても明日はやってくる。いっぺん死んでいるので、それまでの記憶は、昔読んだ本みたいに筋書きを忘れてしまって思い出せないが、日常に感じる空気を素晴らしいと思ったり、そこに確かな厚みを感じるのは、その時間を遠い昔に一度生きていて、懐かしさを感じるからなんだ、と思ったりすることもできる。昨日失った全ては、この人生が終わってから、きっとまた得られるものだ。失ったことを、悔やむこともない。

    でも、今回の人生のうち、これから何が起こるのか、それはどう頑張っても誰も思い出せない。筋書きは決まっているが、それを知っていると居ないとでは、感じ方が全く違う、ということなのだとおもう。そんな我々が、忘れたはずの筋書きを思い出そうとすることは、意味のない詮索であろうと思う。こう自分が信じるのは、そういう詮索が、時として人に新たな一歩を躊躇させることがある、と知っているからだ。

    運命予定説(決定論)と、自由意志はまるで対局に位置するもののように考えられているが、その捉え方は一面的にすぎる。決定論的世界に生きている生物が、世界がこれからどうなるか分からないままに決断を迫られたら、「エイヤッ」と決めなくてはならないし、そもそも、その決め方を自由意志という。一方、それを「客観的」に見たら、その生物は決められたことをそうと知らずにそのとおりしただけだ。自由意志と、決定論は両立するし、単に見方が違うだけだということになる。

    だから自分は、筋書きは事細かに、全て決まっていて未来は変えることができないと考えているけれども、それでも「俺は変えられない」とは思わない。自分が行動することで、世界が変わったようにみえるのなら、それは十分、自分が変えたと言っても正しい表現だ。要するに、見方の違いによって、運命が決まっているとも、そうでないとも言えないということになるんじゃないだろうか。

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