今日なんとなく、電気を消して風呂に入ってみた。暗い風呂というのもなかなか粋なもので、落ちつく。しかしあまりに暗かったので、脱衣所の扉を少し開いて光を取り込んだ。
この自分の行動から、一つの仮説が浮かんだ。人間は電気照明を得ることにより、個人主義的な側面が強くなったのではないか?と。
もし各部屋に電気照明がなければ、人々は皆扉を開いて 、少しでも多くの光を取り込もうとするだろう。扉を開けると、部屋が明るくなることはあっても、暗くなることはほとんどないからだ。ろうそくや油といった燃料を使うこともできるが、それらは限りある資源なので、できるだけ使わないようにするはずである。だから、扉を開いて、光を取り込む。それは太陽の光かもしれないし、月光かもしれないし、隣のろうそくの光かもしれない。そのような扉の開放は、人の交流を進め、そり濃密な人間関係を築かせるだろう。
例えば、昔は同じ部屋での共同生活が多く、親密な人間関係を気付くことが多かった。この共同生活はおそらく、照明を共有しなければならない、という実際的な理由があったから行われていたのではないかと思う。
しかし電気照明の登場により、扉を閉めていても、十分な光を得られるようになった。これにより人々は自分だけの空間に閉じこもることが容易になり、より個人主義的な側面を帯びるようになっていった・・・。
どうでしょう、この仮説は説得力があるでしょうか?
そんなことよりもうーけんよ。
なんで最新記事なのにURLが ア ー カ イ ブ なんだ。
英語はうーけんの方が3千倍詳しいわけだが、用法的にはおk?
電気消しただけで、こんなに考察してるうーけんすごい。考える葦や!!!
数週間前に東京新聞に『闇めし』という記事が載ってた。お寺で、真っ暗の中で食事をとるらしい。
好評につき予約かなり先まで埋まってるらしいけど、誘ったら来てくれる???
>ショタ
最新版だろうが、過去に書いたものであることに違いはない。こうしておけば、1ヶ月たってもURLを変えなくていいだろ?
>かなこ
文化人類学者は食いついてくると思ったw
闇飯面白そうだね!飯にまぎれてゴキブリとかいるんじゃなかろかw
うーむ。電気と扉というのは面白い視点だと思います。
だけど、扉を開けても開けた向こうが暗闇だったら意味がないですよね。扉を開けた向こう側が明るくないといけない前提になっちゃう。そうなると、燃料のこともかんがえて、みんなが同じ部屋に集まるのが自然じゃないでしょうか。扉を開けるのではなく、1つの部屋に集まってしまう。
明治・大正のころに、電気が開通したと思いますが、そのころは電気のおかげで夜も本を読む人が増えて知識人が増えたそうです。本を読むなら静かな場所で読みたいから、扉を閉ざしているかもしれないですね。となると、知識人は自然と個人主義になるのかなぁ。
ちなみに、扉開けとくと騒がしくてイライラするとかありそうです(笑)